車谷の文集

どちらかと言うと考え過ぎるタイプの人

十六、二十歳

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

最後の更新が九月三十日という事で正直かなり驚いているのは僕の方かもしれない。

こんなに時間が経ったのか。もうあと二週間も遅れれば三ヶ月更新しなかったことになる上にもう年が明けてしまうではないか。何をしているんだ僕。

そんな心持ちで久しぶりに書いていこうと思う。

 

本当は二十番目の記事にこの内容を更新したかったのだが、何分、他にいいストックがなかったので改めて書き直すことにした。とはいえ僕はまだ十五しか記事を書いていなかったのだと思うと「なんもしてねぇじゃん」と思わずツッコミを入れたくなるほど、僕はまだ入り口にいる。

そうそう、何故このタイトルにしたかの説明を。僕は今年に二十歳を迎えた。成人。なんとなく一つ区切りがついたような気もするし、何かのスタート地点に立ったような気もする。そんな感じの二十歳スタートだったので深堀りしていけたらと思い切ってタイトルにしてみた。

二十歳になってみての率直な感想として、大人になったかと言えば決してそんなことはないし叶えられたことが一つでもあるかと言われれば正直まだ何も達成していない。でも、二十歳らしく「これからやってやるぜ!」的な若々しさというか熱意というか、一応そういうものも持ち合わせているつもりではある。

志半ばで折れてしまうような夢とか希望とかそういったものを何の根拠もなく思いついては行動し、そして続かずに終わるというのが僕の、そして同世代の大半だと思う。特に最近はその症状がひどく、つい先日MacBookPro14インチを購入したのだが、あれもやれるこれもやれるという事で更に「突発性夢と希望抱き病」が進行している。現にこの記事を書いているのもMacで、かなりウキウキでドヤ顔で書いている。

なんとなくこういう熱い話をするときに思うのが、要するに「語るだけ」になっている事があるということ。もちろん悪くない。うまい飯を囲って仲のいい友人を誘い朝まで夢を語り合うようなそんな時間。すごく楽しいしまたしたいと思えるような時間。でも学歴がない僕にとってその時間というのは周りが今学生だからこそ出来ることで、いずれ周りが就職し結婚し稼ぎが良くなるような未来を考えると、先に行動し何か一つ成果を出さなくてはとつい焦ってしまう。

だから僕は人と比べることをせず自分だけで生きれる準備と想定で生きている。割と物心ついた時くらいからそんなことを思って生きていたかもしれない。でもそれは何よりも自分が「劣っている」という現実から目を背けるための自己防衛の手段だということも承知している。誰かと比べた途端劣等感で心が死ぬような、そんな恐ろしさがある。気がする。

 

いよいよここから、親世代の言う「二十代なんてあっという間だよ」のあっという間期に入ってしまった。

これからいかにゆっくりゆーっくり”あ”というか。

いかに”あ”と言い切る前に何かを成し遂げるか。もちろん”あ”という間に全てが納得できる形で終わればいいがそんなこともないだろう。

 

せめて”あ行”が終わらぬうちには一つ胸を張って言えることを作っていかなければいけないな。

 

 

 

十五、天気

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

まず、あの、お久しぶりです。

もう1ヶ月以上更新して無かったのだけど、描き初めはどうやるんだったっけっていうのが正直な所。良い事を書こうにもつまらない事を書き殴ろうにも、いかんせん鈍っているので上手くいく気はしない。まぁでもやるだけやってみよう。

 

最後に更新したのが八月の十七日という事で、その時はまだ未成年で、いつの間にか誕生日を迎え、僕も成人になっている。それに結構驚き。一ヶ月程前は間違いなく「早く成人してぇよ〜」なんて言っていたと思う。でも気付いたら人生の大事な二十代の一ヶ月が経とうとしている。

 

ここ最近は仕事を変えたいなと思ったり、やっていたゲームをやる頻度が極端に減ったり、コロナにかかって色々ぽかーんとしてた。何かとやる気が起きなくて、本当はジムに行きたかったけどそんな事はコロナで叶わず。

せっかく晴れている日でも家に居る時間がとにかく長かった。そう言う時に「あぁ勿体ねぇな」って凄く思っている。もう何ヶ月も天気を気にして生活していない。

太陽の光を浴びないと人はダメになるって言うのは結構マジな話だと信じているけど、流石に家にいる時間が長い事には慣れている。それでも明らかに元気が無いというのは事実。

晴れの日に何かをしたいと思うし、雨の日には篭って映画でも見たいし、結構人の生活は天気に委ねられてる所がある気がする。

あいつらはかなり気まぐれだし基本的にはイラつく事が多い。「おいおい雨かよ聞いてねぇよ」って、誰かに教えられた訳でもないのに聞いてないとかはザラにある。髪の毛も崩れちゃうし頭痛かったりするし結構迷惑はしているけど、どうしようも無い事っていうのは割と早い段階で諦めがつく。

そう考えれば別に人に気紛れな人が居ても早々に諦めがつくし、わがままは別にいいかってなってしまう。僕はそう言う性格なんだろうけど一般的にはどうなんだろう。でも情緒のアップダウンがあってこそ天気みたいに「それらしい」があって僕はいい事だと思うけどな。

しかし先程話したように天気の突然の変化にはイラつく事が多い。それと同じで人も急な情緒の変化は人の気に障る事が多い。突然泣かれてもおっとおっとどうした〜ってなるばっかりだし、他の感情でも同じ。だから怒っている人が居たら怖いなんて事思わない。「こいつ今めっちゃ雷雨じゃん」ってなるだけ。

結構俯瞰していて人の事を舐めていると自分でも思う。でも昔からそう。僕の場合人付き合いにおいては、心は常に凪いでいる。時々晴天、曇り、風の強い日だってあるけど大体同じ状態を保っている。最近はちょっと曇っていたけれども。

 

久しぶりのブログはやっぱりなんか纏まらない。締まらないなって思った。結局ここまで書いてきてオチとか全然考えられてない。天気のタイトルで人の感情的な部分を書いているし、普通にもっと太陽の黒点の数の話とか台風の話を書いておけば良かったか。

このブログは当初からツイッターの延長線と謳っているだけあって本当に内容も様々で統一していないけどまた少しずつ更新を始めていけたらって思っている。

それこそこれが仕事になれば僕には台風一過の様な圧倒的晴天が訪れるのになぁ。

 

十四、頭の良い人・悪い人

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

ふと思った事あるので色々考えながら読み進めて頂きたい。

 

この頃話題にもなる事が多いような気がする。

頭の良い人。

あぁいう人達というのは、たしかに選ばれた人間感もあるし、それでいてイケメンだったりどこかの社長だったり、そういう人って多い。逆に何が出来ないの?と問いたくなるような人って多くいる。

反対に、頭の悪い人というのも多くいる。常日頃我々のストレスの根源になるような人達。こうした人達にとっても、逆に何故こんな事も出来ないの?と問いたくなるような人がいる。

僕の基準で話せば頭の良し悪しは要所要所で判断基準が変わってくる気がする。

仕事においては気が使える人だとやはり良い印象を受けるし、反対に仕事を増やすような事をされると面倒だなと感じてしまう。

でも決して頭の悪い人を嫌っているわけではなく、むしろ友人関係においては頭の悪い人の方が本当に楽しかったりする。頭が良くても鈍感な人って多いし、アホみたいな事ばかり言っている人に限って鋭い嗅覚を持っていたりする。

結局性格とは比例するものではないし、頭がいいからといって人として好きになる部分が多いかと言われればそうではないし、頭の良し悪しで人を決める人が居たら、それはなんとなく、嫌われ者な気がする。

僕の知り合いはみんな賢い所があるし、自分に持っていない魅力があるから何か思う事があっても指摘しあえる良い関係だけど、世の中のその辺にいる頭の良い人悪い人ってどうしてそんなこと言ってしまうんだろうとか、考えた末に何故それが答えだと思ったのかとか疑問に浮かぶ事が本当に多い。

頭の良い人に限ってゲキヤバ陰謀論みたいなものとか、とにかく既出の何かに囚われたりする人が多い気がするし、頭の悪い人に限って知った様な事を沢山言うから自分は常に「何かの初めての人」だとか特別だとか思ってたりする。

でも

「そう言うことにしておく」

って言うスキルは人間みんな共通していて、頭が良ければ都合良く片付けようとするし、頭の悪い人は変な嘘をついて誤魔化すし、辿り着く先はおおよそ同じなんだなと思うとそれはそれで面白いなと感じる。

 

結論頭の良さで人の質をはかるのは案外馬鹿らしい考えなのかもしれない。

「こいつ頭いいな、でもなんでこんなにボソボソと早口で伝わりにくい話し方なんだろ」

「こいつ馬鹿なんだろうな、そんなにぶりっ子したって誰もお前の事見てねぇよ」

本当にこんな事ばかり。

だからこそ向き合ってちゃんと話した人で人間関係って選ぶべきだと思っている。僕はそうする事にしている。

人は学歴じゃないと言うけれど、何も仕事に限った事ではないんだって話。

 

 

十三、映画について

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

暫くお休みしてしまい申し訳ない。今巷で話題のコロナウイルスに感染し完全にダウンしていた故何も出来なかった。流石に勘弁して欲しい。言い訳はこの辺にして早速本題に移る。

 

今回のトピックとして取り上げたのは趣味の一つである「映画」について。ここに来ていきなり自分の趣味の話かよとなってしまうかもしれないが、あえて自分の趣味を振り返ろうと言う事で、深掘りしていく。

記念すべき一枚目で僕は趣味の話をしたが、それはあくまで趣味というものに対する記事で、中身の事は話せていないかもしれないと思いここで初めてオタクの様に中身の部分を語ってやろうと思う。

映画といっても楽しみ方というのは人それぞれで、僕なりの映画を見る時のこだわりから話していくと、まず映画の時にポップコーンは禁忌としている。特に集中して見たいものであれば自分の咀嚼音が耳に響いて邪魔をする為、もし仮に食べたとしてもほぼ噛まずに飲む事になる。手に汗握るシーンなどでポップコーンは絶対に食べない事にしている。

あとは映画のネタバレや結末は人から聞いてもそこまで嫌な気はしない。ここが他の人と違うところでは無いだろうか。本来は腹が立つものだと言う人もいるが、正直、インプット→アウトプットが間違いなく完璧に一致している人などいない上に説明が下手な人だとそもそも期待していないので、結局忘れて自分で見た時に感じた事を信じているからという理由。意外とネタバレが下手な人って多い気がする。だから逆にその人のネタバレを聞いた上で見るというのも案外楽しかったりする。

映画に関しては小さい頃から本当にジャンル様々でよく見ていて、母親が元々映画好きなのもあり昔からその歳の子が見ないような映画に触れて生きてきた。映画というのも通は多いし上には上がいるので僕なんかは全然下っ端。

でも映画は色々な人が平等に楽しめるものだと思っているので映画を通して作者が強調したかった部分や敢えて言わない部分を想像して考察するというのは映画特有の楽しさがあると思う。こういうのは決して学校では学べない気がする。人の気持ちなどを理解するのに多かれ少なかれ勉強になる趣味、それが映画だと思っている。

僕もいずれ自分に子供が出来たら色々な映画を見せてやりたいし、制限なく映画を見させたいと思う。

今まで見てきた映画は勿論ジャンルもバラバラ年代もバラバラだが、個人的に実は結構ラブロマンスやラブコメなどが好きで、自分のキャラでは無いがそういったものに感動したりすることも多い。ラブソングこそ聞かない癖に露骨に映画でキュンキュンしたりしている。

これから、映画を見始めようという人も増えてくると思う。自粛のムーブメントの中で僕もかなり映画を見た。そこで強くお勧めしておきたいのはヒューマンドラマ系。勿論ド派手なアクションや緊張感溢れるサスペンス系も非常に良い。ただ、こうした時期に何が大切で何が自分に欠けていたかというのをハートフルに教えてくれるのはヒューマンドラマだと思う。グロの描写などもないし、見る人を選ばず誰でも気軽に見れてきっと素敵な気持ちになれると思う。そんな映画に出会って欲しい。でもここでおすすめタイトルなどは紹介しない。ダラダラとネットサーフィンをしていく中で出会った映画というものに期待して欲しいから。

 

こんな事を話していると映画をすごく見たくなるのだが、今晩はなんだかいい映画に出逢えそうな気がする。

 

十二、家族

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

さて、今回話をするのは家族について。家族と言っても、血の繋がりが有る家族・無い家族、動物として違う家族、家族だと思っている人、形は色々あると思う。不思議な気もするし当然な気もする。僕にとっての家族ってなんとなくよくわかんない所だらけ。

多分好きである必要も無いし嫌いである必要も無いというか、家族は敵でも味方でも無い存在、完全な中立扱いで良いような気がする。自分にとって都合の良い存在なのかもしれない。スタイルってひとつじゃない。だから今回は"僕の家族"に対する僕視点の話をしていく。

僕には父母妹3人弟1人がいる。どれも満遍なく仲良いし、下2人に至っては父は違うし歳も離れているから正直兄弟というより自分の子に近い感覚がある。でもその子らにも愛情はあるし、どうなっても半分は同じだからなって思う。

僕にもいつしか子供ができて愛する妻がいて、とかそういう妄想はしてしまうけど果たして妻を愛しているのか、子供を愛しているのか。そんな事は今ハッキリと言えない。何も分からないから。

でもそういう家族の空気感というものに憧れていて、それが消える事なくある内は、孤独を嫌がっている気がする。

勿論独身を孤独と言っている訳ではないし、そういう"生き方の選択"の一つとしか思っていないが、基本生きる事というのは自分にとっての事だと思っていない。死にも関係してくるかもしれないが、家族がいて友達がいてこそ価値を見出せたし、このクソゲーに納得出来ている。生きる事は他人から見ての事象だと思っている。

きっと僕は家族が居ればいつまでも目標を作り続けて生きる事ができるだろう。遊ぶ事やお金を稼ぐ事も今はまだ全然自分の為にしたいと思うが、やがてそれは無くなっていく気がする。家族の温かみというものを僕は知る事が出来て幸せに不自由なく育てて頂けたからこそ、自分も同様に、死にたいと思っていない限りは家族や大切なものを"たとえ面倒臭くても"つくって生きてやりたいと思う。

 

結局の所家族と言うのは自分にとって一番楽なように付き合っていれば良い気がするし、過ごす時間の長さと言うのは明らかに一番少ないものだと思う。友達とも遊べない、仕事もつまらない、何かしたい趣味とかもない。そうなればきっと残るものはないだろう。でも家族が一つあるだけで心も体も時間もそこに使う事が出来る。

そう考えたら家族の行き着く先、最終地点は「活動理由」なのかもしれない。何かと都合をつける事が出来る。そのようにして良くも悪くも利用価値をつけているのが家族なのだろう。

そこに血の繋がりや種としての違いは必要なのだろうか。家族として必要なものって案外「想い」だけなのではないだろうか。

 

こんな事はあえて、紙に書いて残しておきたいかもしれない。

 

 

十一、欲望

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

三大欲求が平等に満たされるって、これほどの幸福ってないよな。そんな事をよく思ってる。満たされてねぇんだろうなって思うと食いてぇ寝てぇヤリてぇで、正直大変だ。

このブログ、中には僕の友人も見ているのでこんな所でこんな話をするべきではないのかもしれないが僕にとってこれはあくまでTwitterの延長みたいなものだと思っているので大目に見てやって欲しい。

 

食べてない眠れてないヤれてない。この中で明らかに異彩を放つ"〇〇"がある。ヒントは一番最後に書いてあるものなのだが、実はこれには異議があるらしい。三大欲求は食欲・睡眠欲・排泄欲だという説。確かにそうなのかもしれない。皆に平等に起こる三つの欲求と言えば確かに排泄をしたい欲を除くのはどうなのだろう。

でも僕のこの記事ではあえて排泄欲に関しては書かない。何故かと言われれば単に性欲が好きだからだ。なんだかんだでしっくりきているのはこちらなのだから。

本題として本当にこの記事で書きたい事としては、人間の欲求との付き合い方についてだ。

不思議なもので、何を考えていると言うことも無くただ生きているだけで腹が減り眠くなりムラムラする。本当に不思議でならなかったのはその先で、どれか一つが足りていない時に後の二つを満たせばある程度解決してしまうと言う点。

腹が減ればオナニーをして寝る

眠たくなれば飯を食ってオナニーをする

ムラムラすれば飯を食って寝る

本当に馬鹿な事を話しているけどこれで意外と解決してしまう。僕だけだったら先に謝罪させて欲しい。本来解決したい事とは逆の行動をとっているのに、何故だか本来やりたかった行動は忘れてしまう。これは勉強だったり人間関係で同じような事が言える気がする。(ごめんちょっと本当にただオナニーしたいだけの奴みたいで自分で書いててわろけてきた)

理性で抑えることが難しいとされる欲望だけど、本当にその通りだなと思う。こう言う話をする時は大抵仲間内でアホな話をしてる時。結局皆動物で、同じ機能として備わっていて、共通の感覚として平等に分け与えられてるもの、それが欲だと思う。失礼な事かもしれないが、ある意味ここらの欲望があまり表に出てこない人であれば人間味を感じないし感情移入する事ができない気がする。友達には要らないかな。

 

最後にこんな話になってしまうのは考えすぎだろうが、どこまでヤンチャをしても非行に走っても変わった事をしたくても、結局"人間"と言う枠組みから外れる事はできないし、"人間"の枠組みの中にある欲望から逃げる事はできない。そう思うと、ざっくりと言えば人間皆一緒だと思ってしまう。こう言う価値観をなんと言うのだろう。よくわからないけどこう言う事を四六時中考えてしまう。

欲求不満とは欲が満たされていない時だけでは無く、人に否定された時や気に食わなかった時に出る感情でもあると思っている。

 

 

 

 

 

 

十、流行

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

最近の僕は一言で言えば非常に疲れておりまして、仕事と筋トレばかりしておりますので趣味に傾倒する時間など皆無。寝て起きて食って仕事して筋トレして帰って食って寝る。ほぼ動物。正直三連勤が限界。それ以上は上の空。まさか自分が忙しくて疲れるだなんて、今僕は人生計画に入っていない事が起きているので凄く驚いている。でもこんな日も悪くないって思える心の余裕はまだあるのでまだ疲れる事ができる。ここからが漢の見せ所だ。

 

このようにして疲れている男には今流行の事など気にしている余裕はない。疲れきってLINEニュース以外を見るのは億劫。何が流行しているのだろう。何が皆を惹きつけているのだろう。そんな事を忙しい時にこそ思ってしまう。

ファッションの流行。何も知らない。何色がトレンドでどんなものが若者に人気なのか。んー、でもそういえば開襟シャツを着ている男女は多いような気はする。まぁでもこの程度で何も知らない。僕は服の流行に対しそこまで興味が無いのは「服こそよりミニマルである方がいい」と思っているから。

音楽の流行。またしても何も知らない。どんなジャンルが人気なのか。何がカラオケでよく歌われているのか知らない。せいぜい自分のプレイリストを日々作り直してきいてはにやけている。そんなものだろう。

僕はせめてついていけないような事がないようにとだけは思っているのだが、それ以上を求めていない。流行った事を勿論受け入れるしそんな天邪鬼な事はしないが、要するに好きなものは揺るがない。新しく好きなものが増える事はあっても好きなことの断捨離というのは人にとって最も難しい事の一つだと思う。

でもこんな時に思うのは結局好きな事を増やしていける人間で良かったと思う。好きなものを好きだと言える素直さ。流行を認められる素直さ。そう言ったものはやがて年齢を重ねる毎に失っていく。むしろ以前の記事で話した若さというものはこういう所から得られるのかもしれない。人は拘りの中でしか生きられないので、流行に則る事も若さへの近道な気はする。

時代によって流行は大きく変わってきたし、きっと今ヤマンバギャルが突如として電車に現れたらその車両から人はいなくなるだろう。「なんであんなにあの時ハマってたんだろう」なんて事は日常的によくある。結局流行を左右させたのはそれに影響され真似た自分達なのだから流行に対して恥ずかしがる事は過去の自分に恥じらっているのと同じような気がする。

 

今後何が流行り何が多大な影響力を持つのかはわからない。時には戦争の武器としても使えてしまうその流行には、必ず理由があるし背景が必ずある。そう思うと凄く面白いものだなと唆られる。

 

全ては香水のせいだろうか。小さい事は気にしない。そんなの関係ない。右から左へ受け流していこうではないか。