車谷の文集

どちらかと言うと考え過ぎるタイプの人

九、歳をとる事

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

さて、今回のテーマは「歳をとる事」

加齢です。逃げる事の出来ない現実、いずれは言われるクソジジイクソババアです。時間が経っているだけなのに本当それだけで色々変わるよな。ふざけないで欲しい。そんなにコロコロ気持ちとか状況って変わらなくていいのにとか思う。昨日と今日で食べたいもの変わらなくていいのにって普通に思う。でも少しだけ真面目に話します。そんな気分。

 

老いる事は普通と言えば普通だし、違う見方をすれば奇跡的だって思えたりもするし、とにかく歳をとる事って"何に置き換えて考えるか"によって違ってくると思う。場合によっては歳をとらないなとも思う。

歳をとる事に繋がる一大イベントといえば"死"だと思うが、いつまでも若くいたい事が死に対する抵抗だとは思わない。むしろ死は怖くないのに老いて変わる周りの評価や自分のプライドが傷つく事の方がよっぽど怖かったりする。歳をとるという事は自分がその歳になって納得できる自信がないから嫌なのだと思う。

僕自身はと言うと、歳をとるのは「若いうちにできるはずのことができなくなる」と言う意味では嫌だ。だが、「色々な経験を経て人として成長できる」と言う意味ではむしろ喜ばしい。決して歳をとる事が悪い事でも恥ずかしい事でもなく、至極当然の話なので、勿論若く見られると言うのは見た目の問題で言えばとても嬉しい。しかし発言がいつまでも子供のままでは、その「えぇ〇〇君/ちゃんいつまでも若々しくて羨まし〜」という言葉はディスでしかない。そう考えると若くいると言う事が優れていると言うわけでも無さそうだ。

きっと男性と女性によっても意見が割れてくる所ではあると思う。でもこれは男女関係なく、歳をとる事が可能性を狭める原因だなんて思って欲しくない。むしろ出来る事がたくさん増えて誰に邪魔をされる訳でもなくその決断を自分で下せるというのはとても素敵な事なんだと思う。子供の頃思った"いつまでもこのままがいいなぁ"と言う淡い気持ちは何の責任も無かったからこその感情で、責任ばかりの大人ではそうはいかない。しかしそれが自分から楽しさを奪う理由にはならない。

歳をとると言うのはいずれやってくる死によって寂しさを連想させてしまうし、変化というものに耐えきれなくて今にも泣き出してしまいそうな時もあるだろう。その現実を受け入れていくしかないというのに目を背けてしまう。だからすがるものも無く時間任せに全てを解決しようとするのだ。

でも歳をとる事は悲しいだけではない。これから沢山選択して沢山悩んで沢山感情的になる事ができる。どれも生きていなければ出来ないし逆に言えば死ねば全てが解決してしまうだろう。仮にそんな楽なチートを使ってこの壮大な人生ゲームに打ち勝つことができても本当の勝利とは言えないような気がする。

年齢など気にせずただ先の事を見据えて物事を考える癖というのは幾つになっても変わらず大切な事なのかもしれない。出来る事を選べるからこそ自分に課された仕事として人生をスーパーハッピーに生きてやらなければいけない気がする。それが本当の歳をとる言うものなのかな。

まだ尻の青い僕には分からない。

 

 

 

 

八、感情の言語化

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

今回の私は爆発します。タイトルからどの様な内容を想像するかは人によるだろうが、今まさに爆発させたい感情を言葉にしていこうと思う。

 

結局僕は思うが、感情を言葉にするというのは本当に正解がないし、果てしなくて死ぬまで纏わりつくものなのだろうなと感じる。一言で言えば本当に「面倒くさい」。逆に一言で言わなければ無限の言い換えがある。もはやそれも面倒くさい。

正直言語化されたものにだけ着目して、相手がどう思ってるとか勝手に期待したくせにとか、そういう「言葉になっていない感情」の事などは一切考えずただ純粋に言葉だけを鵜呑みにして生きていきたい。まじで。MAJIDE。

「人は考える葦である」

と、ブレーズ・パスカルはそういうが、どちらかと言えばもう葦で居たい。考えない葦がいい。だからこそ逆に人として生まれて良かったと思うこともあるし人間に感情というものがあって助かったと思う。

友人の相談に乗る時など多少格好付けて答えたりもするが、相手が相談してきた事に対して何を言えば一番喜ぶのか、納得してもらえるかというのはこちら側が察する事しか出来ないし、僕の回答に対して合ってる間違ってると言われればそれはそれで少し腹立たしい。何より突然相談されたものに対して限りなく正解に近いものを言語化するなど、始まりの村的な段階でディアルガが出てくるようなもの。対抗策などこちらは持ち合わせていない。それこそ、"何も期待するな"と強く思っている。

しかし不思議なもので、これだけ面倒くさいというのに相手から相談をされると決まって頭の中はその事でいっぱいになるし、どうしてあげれば少しでも良い方向に向けてあげられるだろうかと考える。もちろん親しい友人であればあるほどその思いは強くなる。人と人は見えないものでちゃんと繋がっているので、所詮僕のような者にでも一応信頼できる友人はいるし、友人に対しては出来るだけ思っている事を包み隠さず伝えてやろうと思う。

今感情を言葉にすることが難しいと感じる人には伝えたい。

潔く諦めよう。怒りを隠すなど、泣く事を我慢するなど、喜びのリアクションをクールに決めるなど、そんな事は必要ない。どう伝えても結果は同じ、という事はないが感情的になってしまう事が悪い事ではない。むしろストレートに心に響いてそれが正しく作用する事もある。言葉を選んで相手の事を考えて伝える事は当然社会に生きる者として必要最低限心得ておくべき事だ。だが友人や彼氏彼女、家族に関してはもう少し大雑把でいいはずだ。そういうシーンで上手く使い分ける事がそのままその人の人間性になってくるし直接信用問題に関わってくると思う。

 

人格者こそ、感情的になっていいし、時に言語化が下手くそでもいい。本当に大切なのは今のその感情を言語化のミスによって見失わずに、もし言語化するのが難しいのであれば無理せずそのままの感情で話す事だと思う。

人間、なかなか素直になれないもんでね。アセアセ。

 

 

 

 

 

 

七、洒落

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

この頃は蝉もうるさくいよいよ本格的に夏が始まってしまったなという気持ちだが、昨年の夏は殆ど家に居たので夏らしい暑さを感じる事もなく、季節的なイベントの参加もなかったので、今年の夏はとにかく肌が白い。このまま白さを保っていたい。シミ、紫外線、熱中症、台風。この辺はまさに"怖いめぅ"と言った感じ。

 

どう考えても夏の日に長袖長ズボンを履く様な事、小学生では思い付かなかった。虫取り網に半袖短パン、焼けた黒い肌に冷えた麦茶が似合うクソガキをやっていたあの頃とはもう違い今はお金を稼ぐ事に必死になっている。

あの頃は小洒落た母の買ってきたものを着て親の何かに全てを任せて生きていた。思えばあの頃が一番何も考えずに無邪気に生きていたかもしれない。

だが僕はこのお洒落にどうも引っかかるところがある。

人はお洒落を覚えると途端にシフトチェンジして今までの自分が嘘だったかの様に変わっていくのは何故だろう。性格も趣味も目標も。あれはきっと今まで取り入れてこなかったお洒落を覚えたからだろうか。そして次第に過去を恥じらう様になり、大人という意味を履き違えて道を逸れるなどしてしまう。まさに"洒落"を"酒落"と勘違いした若者の事。

犯罪以外であれば大抵の事は許される世の中だと思っている。勿論酒に落ちる事も勝手だろう。いずれ洒落とはこういうものかと気付きそれが自然と実行に移せる人間になれたら理想的だろう。

その上で、人というのは何故お洒落を感じ取れる様になった途端に素直になれなくなるのだろうか。拘りが邪魔をしているのだろうか。まるで自分が正しいかの様に語りかけてくる人が大勢いる。果たしてその言動・行動は洒落ているのだろうか。そんな人に洒落が言えるのだろうか。

結局、お洒落、まぁ主に服装であったり趣味であったり価値観の事をここでは言っているが、全ては何かの二番煎じに過ぎないし、そこからオリジナルを生み出せる人は数少ないと思っている。だが辿り着いたオリジナルの先にお洒落と言われる未来が待っているとも限らない。決まって最初は変わり者と呼ばれてしまうだろう。

子供では起こり得なかった言い合いが起き、何も考えていなかった時間が動き出す。ここで思う事は、お洒落を覚えた事により人の分岐というのは始まると思う。一つの分岐点というのは既に髪型をいじり始めた時に訪れていたのだろう。お前の事など誰も見ていないというのに。

勿論僕は格好良い格好悪いで考えるとするなら格好良い方に居たいし、格好悪い人間である必要がないと思っている。だがそこに洒落をいえる余裕があるのかどうか。小洒落でも大洒落でもいい。少しはそういった心のゆとりがあるのかどうか。そこを天秤にかけて決めていきたいと思う。

 

本当にお洒落な人なのであれば、泥臭くてもいい。

だが、そんな人に僕は洒落を飛ばしてギャフンと言わせて1発かましてやりたいと企んでいる。

噛み付いた相手が思わぬ強敵で、洒落にならない結果を生んでしまう事だけは避けたいが。

六、日常

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

僕はふと考える。眠い目を擦り朝弁当を作って会社に行き、定時に退社で1時間かけてジムに寄り、2時間のトレーニングを終えて帰宅。着く頃には0時前でブログ書く余力もなくそのまま泥のように眠る。こんな日常を過ごしている僕でもこれをとても大切に思う。これはとある映画が教えてくれた事だ。

 

最近は疲れているのか余計な愚痴ツイートのようなものもだんだん増えてきているが、本当はこうしてしっかりと言葉にする時間を設けてブログを書きたい。勤務中の暇な時間で余計なツイートをしている。なんたって昨日は特にツイートが多かったなと思う。自分でも昨日のツイートの量には「流石に草」と言ったところだ。

こんな日常を皆は今好きでいれているだろうか。大切に思って1日を過ごしている人はいるだろうか。過半数はただ普通に過ごしているだろう。しかし今のご時世どうしてもそう思う余裕無くただガムシャラに生きている人が多くいる。

僕は今、上に書いたような自分の日常も含めて全て宝物のように見えている。きっといずれは今の仕事は変わり、今まで日常だった事は無くなり、また別の日常が訪れる。今しか体験する事のできない日常に僕は一喜一憂している。そう思うとたまらなく幸せで愛おしいのだ。

いずれ必ず「あの時はこうだったよなガハハ...」と友人と口を開けて手を叩いて笑う日が来る。そう思うと今をどれだけ面白くできるか、ネタを作れるか、思い出を残せるかと言うのを決めるのは他でもない今しかないのだ。

先の事を見て考えて生きているからこそ今ある時間、日常に目を向けてやる事が大切なのだと思っている。

と、こう考えるようになったのは一つの映画との出会いだが、その映画を見ていた時僕にはガールフレンドがいて、映画を見た頃の日常を思い返すとそう言う話になってしまう。照れ隠しにおちんちんでも切ってやろうかと思うがそれでもあの映画の内容は本当に素敵だったな。

最近はパスタにハマっていて、どうせ今日もあぁじゃないこうじゃないと試行錯誤しながらパスタを完成させるのだろう。料理できる男マジカッケェ!もこみち最高!オリーブオイルありますか!という理由ではじまってるのだがこれもまた波は去るのかと思うとやっぱり寂しい。

人との出会いもそう。ここからこの人との日常が始まりやがて変わっていく。それがわかっているから「はじめまして」は一番寂しい言葉にも聞こえてしまう。

 

皆は今幸せなのだろうか。素敵な日常を過ごせているだろうか。そんな事を考えると皆にそういう話を聞いてみたくなる。

 

だからこそ、逆に非日常というのは目立って楽しいのだろう。

今日の投稿はなんだか中身がある様で無い黄昏の文章。

五、"嫌い"

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

4日間続けて投稿する事ができました。これは偉大な功績だ。僕史上No.1の功績と言っても、過言ではある。これは流石に過言である。

そしてこの5枚目の投稿にしてついに「読みやすさ」というのを意識していこうと思う。ダラダラとしながらお手軽に読めるような、まずは文字数から変えていこう。

 

さて、この攻撃的なタイトルを皆どう受け取っただろうか。

"嫌い"

まぁ、そのままだろう。今日綴っていくのはこの「嫌い」という感情についてのお話。

僕は以前よりこの"嫌い"ということに対して一つ決めている事がある。それは「どれだけ嫌いでも暫くはそれとの関係を断ち切らない」というルール。これが何故なのか説明していこう。

今まで生きてきて皆も一度は思った事があるのでは無いだろうか。「今日の私何かちょっと調子乗っていたなぁ。本当はこんなはずじゃなかったのになぁ。」と。初対面というのは、実は人間関係において非常に面白いもので、人は必ず相手と壁を作るし必ず猫を被るので、本来の姿と言うのその時点では出てこない。なので、残酷だが最初の印象作りを成功しても失敗してもそれがその人なのだとなってしまう。つまり自分ではこんな筈じゃなかったと思っても相手には一度そのように受け取られたらその関係を続けない限り修正する事ができない。そこで相手に"嫌い"だと思われれば尚更近づいていく事は難しいだろう。

そこを僕は逆手に取る事にしている。相手に対して初対面で「何か嫌だな」と思った場合、敢えて関係を続ける。一番ストレスのない解決方法というのはその人を断つと言う事。勿論僕はそれをしないと言う事になるのでストレスは抱えるし悩みも増える事になる。だがそれでもその人には何故か望みをかけて「きっと本人も不本意だろう。2度目で少しはマシになる筈だ」と勝手にチャンスをあげている。

僕から嫌いになった所で相手に大きな被害が及ぶと言う事はまず無い。これが僕なりの優しさなのか冷酷さなのか、はたまたずる賢い所なのかと言った所だが、僕はただ純粋に相手を知りたいと言うその好奇心がなくならない限りは断つことが無い。

こうして今まで人間関係を築き上げてきたわけだが、勿論嫌なものは嫌と割り切って生きていく方が百倍楽なのは百も承知である。ふん。だから僕は他人のそのような考えを否定しないし断ちたきゃ断てばいいとおもう。もしかしたら単純に僕には人間関係を断つ勇気が無いだけなのかもしれない。それは僕にも分からない。

 

この話はあくまで僕視点の話だし同じようにする必要は無い。ただ、こう言う人もいるという感想だけでも残れば嬉しい。

"嫌い"が多い人間より"好き"が多い人間に僕はなりたいだけなのだ。

 

四、恋

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

ふと前の三つのブログを読み返しました。僕、なんで食っていくことばっかりの話をしているのでしょう。今僕は痩せている途中だと言うのに。やはり食欲に勝るものは無いのでしょうか。結局はそういう事なんでしょうか。辞めてください痩せたいので。

 

今回僕がお話しするのは今までの話とは打って変わって、「恋愛」の話。みんなが一番好きなやつ。

今まで趣味の話、自由の話、そして全体を通して食っていくこと・何かを追い続ける事に関して思ったことを話してきた。でも僕はこの話題を避けて通れないような気がする。だって何をするにしても結局はどっちを取るんだって言う天秤に常にあるような気がするから。

最近良く思う。僕も大人になったなと。何かを理由にして好きな事を抑えるって子供にはできない事だ。ここで話す事なのかは分からないが過去の恋愛はそのようにして別れも訪れた。正直正解もわからないしどうすればベストだったかなどいくら考えてもキリが無いので頭を使うだけ勿体無いと思うようにした。

純粋な好きと言うその感情を相手に伝える難易度が年々上がっていくのは多くの経験を通して「相手はきっとこうだろうな」と身勝手な理由を作ってしまうからであろう。その理由の数が年を重ねる分だけ増えるのだ。むしろそんな事なしに子供の頃のように「〇〇君/ちゃん好きー!」などという蛮族は大人の世界にいたらかなり事件性が高い。

でも良く考えてみれば何故恋というのは自分で難易度を上げてしまうのだろう。

もっと簡単に分かりやすく誰にでも出来るものであればいいのでは無いだろうか。テンプレートがあれば分かりやすくていいのでは無いだろうか。

と、いう問題でも無い。決して"異性を好きになる"と言う事が定義でも無いこの世の中で愛の在り方など誰かが決め付けていいようなものでは無い。誰を好きになってもいいし何と一緒にいたっていい。それが難易度を上げる一つの要因である事は恐らく間違いない。でも、時には楽をしたい。簡単であればつまらない、複雑であれば楽しいと言うものでも無いが簡単で楽しい時も必要だと言う事が大事なのだろう。

どんな人がタイプか、どんな人を好きになり、どんな人と一緒にいたいかと言う質問が良くある。それには一応答える。それっぽく。だがはっきり言うとタイプなど無いし本質的にこう言う人ばかり好きになると言う人は殆どいないのではと思ってしまう。もし本当に「タイプはこう言う人で」と決まっているのであればそもそも毎度同じ事で悩まない筈だ。

結局は同じことで何度も悩むし同じ事でぶつかる。何人と付き合っても毎回ぶつかる壁はいつも同じ。そう言う人が多いだろう。そんな事を考えているうちに思い出す事が沢山あるが、そう言う話を今したい訳じゃない。どきしょい話をするためにブログを書いている訳では無い。

僕がどんな経験をしたかなど笑い話にしかならないだろうが僕なりに好きだった人がいるしきっと皆の中にも心にしまっておきたい魅力的な人というのはゼロでは無いだろう。そんな人を見つける事ができた事を宝にしようでは無いか。

 

皆が等しく同じ経験をしているのであれば同じ寂しさは訪れないしきっと楽しくも無いだろう。皆が違う感性を持ち、違う世界を生きているからこそ他人の話は面白いのであって興味深いものだと思う。

忘れてもいいし鮮明に覚えていてもいいし未練が残っていてもいい。何が良くて何が気持ち悪い事かなど所詮はこちら側の物差しで測っている事を

だからあえて言うが私は世のおちんちんマスターも否定していない。彼等彼女等にとってそれが一番今楽しい事なのだろうから。

 

恋というものは、物語として捉えてもまた面白いのでは無いだろうか。

 

 

三、馬鹿らしくなるよな。

今回もお読み頂きありがとうございます。

 

早速本題に入っていこうと思う。今回の僕はとにかく話したがりなので何卒よろしくお願いします。

 

先日友人と話していて面白い話題があった。彼は今YouTubeをやっているのだが、僕が本当にすごいと思うのは、かれこれ5〜6年程動画投稿及び編集を続けている。友人の事なので敢えてハッキリ言うが、恐らく馬鹿にされた事もあるだろうし、実らなかった時間の方が長かった。

そんな彼とはこんな話をした。

 

大人の言う『その世界で成功できるのはほんの"一握り"の人間だけだぞ』っていう謎の脅し文句、あれマジなんなんだろうなぁ....

 

確かによくよく考えてみれば、まず"一握り"とは実際に何人の事を指すのだろう。更に考えると、"一握り"とは言っても、赤子の手なのか大仏の手なのか。それだけで"一握り"というもののサイズ感は大きく変わってくるだろう。

僕や世間が思うような"一握り"の人間というのは、Jpopで言えば米津玄師さん、バスケットボールで言えば八村塁さん、野球で言えば大谷翔平さん、お笑い芸人で言えば....これは人によるか。

なんとなくだが、まぁ、こんな所だろう。"一握り"の成功者というのを指すのは一般的にこのクラスの所謂化け物や天才などと世間に言わしめるような人達の事なのだろう。

ハッキリ言おう。僕は今から米津玄師さんにも大谷翔平さんにも目指した所でなれるものではない。一般人には天才のフリしかできない。そこに向かって持ち合わせの材料でなんとかするしかない。「相手にそう思わせる」という巧妙な嘘を現実にしていく事しか出来ない。それが今の僕であり多くの世間一般の人の事なのだろう。

では、僕の様な一般人が気付けた"一握り"の人間に共通している事は何か。

「皆、やっている」という事。たったこれだけの事だと思う。寝ていてモデルの仕事が降ってくる事も、風呂に入ってて仕事が降ってくる事も、糞をしていて仕事が増える事も、全てあり得ない。と言うかあり得てしまっては僕達の立場は無くなってまうわ。

成功するかどうかなど本人が一番保証できない。保証してくれるのは周りの影響があってこそのものだろう。その道で素晴らしい功績を残せるかどうかなど、初めから知っていれば皆行動している。未来が読めないから"一握り"の人間に挑戦出来ずに食い込めないのだ。

つまり僕が今思っているのは、非常に安易かもしれないが

「"一握り"の存在を目指して本当に"一握り"の存在になれる人はそれこそ"一握り"しかいないが、そうはならなくとも食う所まではきっと出来る」

と言う事。こんな事を書いている間にもモデルはきっと僕が食べないような見た事ないサラダとか食べているだろうし、見えない所で密かに頑張っているのは皆同じ。

先人が挑戦を続けたのはこれに気付いていたからだろう。実らない事でも全然良いと思うし、結果が出る事が全てではないと思うのは、こうしていつでも自分が納得できる理由を作れるからだと思う。自分を正当化出来る理由があれば結論として成功しているのではないだろうか。

 

とは言えこれだけものを言えて頭で理解して気付くこともできて、もうあとは行動するだけだと言うのに、それでも人はサボってしまう。楽な方に居る方がよっぽど楽しく生きれるからなのだろう。

こう言う所が人間的で素晴らしいと思う。素敵だなと思う。「欲望などには決して負けない!」と意気込んだ側からきっとマクドナルドのポテトを頬張っている。

そんなもんなんだ。そんなもんなんだよ結局人って言う生き物は。地球上で最も賢い生物だと言うのに、本当、馬鹿らしくなるよな。

 

って言う話です。